2012年5月22日火曜日
テレビでは、なぜ、大勢の人が殺されるのか?
テレビでは、なぜ、毎日あんなに大勢の人が殺されなければならないのでしょうか。
人間「死ぬ」時は、いつか来ますが、テレビでは時が来て「死ぬ」のでなく、時が来ないのに、理不尽に「殺される」話が、毎日、毎日厭きもせず放映されています。もっとも、見るほうは飽きているかも。
時代劇、事件もの、映画のドラマだけでなく、ニューズも、殺人事件の報道を、これでもかこれでもか、としつっこくしています。こちらは、本当に殺された人がいます。
「殺人」というと、「人を殺す」ということです。考えてみたら、ドラマやニュースの視点は、「殺人」する人、「殺す人」の視点が圧倒的に多いように思いませんか。だって、「殺された人」は、いなくなったわけでから、画面に「映像」として出てこれないわけです。化けてでもない限り。
もっと、不思議なのは、そういう「人が殺される」ドラマやニュースを、よろこんでから、どうか、は分かりませんが、大勢いる、ということです。
テレビは、視聴率に敏感ですから、見る人が減れば、そういう番組を作らないし、再放送もしないでしょう。
江戸の時代劇といえば、先ずは「殺し」。江戸時代の犯罪について、あるサイトに次のように書いてあります。
いずれにせよ,普通の警察の仕事をする正規の警察官が全部で二十四人,いわゆるお巡りさん役は,たったの十二人しかいなかった。空前絶後の弱体警察というほかない。
実際はその反対で,江戸はおよそ犯罪の少ない町だったから,わずかな人数の警官しか必要なかったのである。テレビの捕り物帖と違って,殺人事件などせいぜい一年に一度あるかないかで,…享保年間には,伝馬町の牢屋に被疑者が一人も入っていなかった時期があるとさえいわれるほどだ。
http://t-fujita.typepad.jp/geschichte/2012/02/江戸の犯罪.html
こういう意見があるでしょう。
それでは、西洋では、ギリシャ悲劇やシェークスピアの劇では、人殺しが定番で、人々はそれを喜んで観ているではないか。
そして、アリストテレスは、『詩学』のなかで、それをカタルシスと呼んでいるではないか。
しかし、そこで殺されるのは、普通の人ではなく、ドラマの主人公の「英雄」です。
悲劇は英雄に起こった出来事と行為を再現(ミメーシス)することによって、観客はともに英雄の苦悩を経験し、最終的に浄化作用(カタルシス)を得る。
http://okwave.jp/qa/q3396168.html
幸福の絶頂にある、ドラマの主人公の高貴な人が、一瞬にして不幸のどん底に落ちて、「悲劇的な」死を迎える。それを観劇する凡人は、あんな高貴な人でも不幸になって死ぬなら、そういう運命に会わないわれわれは幸せだ、というカタルシスを得る。
そんなことを、大学院の時の講義で聴きましたね。
しかし、テレビや映画で「殺される」のは、まったく普通の罪もない、われわれと同じ人たちです。そうなると、明日はわが身、と思う人もいるでしょう。カタルシスどころではないです。
大河ドラマの中では、毎年いったい何人の名もない人が、殺されたり、互いに殺しあったりしているでしょう。その大半の「殺し」の責任者は、水kら手を下さなくても、織田信長と豊臣秀吉です。その二人は、英傑ということになっています。
歴史上、もっとも多くの人を殺したのは、ヒットラーとスターリン、そしてポルポト率いるクメール・ルージュと言われています。毛沢東は、どうかな。
以前に何かのことで紹介した、天野純稀『風吹く谷の守人』は、織田信長と豊臣秀吉を「殺人者」として扱っている、と、そういう風に私は読みました。彼らを「殺人者」として、扱っているのは、他に例があるのかな。あったら教えてください。
というわけなのか、どうか、分かりませんが、日本では、どうやら「人殺し」でも、というか、「人殺し」が英雄になれるので、その英雄が殺される「悲劇」より、普通の人が「殺されて」も悲劇にならない、テレビドラマや映画が、人気があるのでしょうか。
もし、信長や秀吉、更には、江戸時代にテレビがあって、今のような時代劇や、普通の人が殺されるドラマが放映されていたら、当時の百姓・町民、更には下級武士たちは、喜んで観たでしょうか。
という、何かつまらないことを、考えるので、「人が殺される」ドラマや、「人が殺された」ニュースは、ほとんどまったくと言っていいほど見ません。
これって、「テレビ見ないバカ」になるのかな。
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